プロフィール第2回 ウィーン君 二十代ドラゴンズファン成熟期なる(1)

ヤクルトは強かった

わたくし二十歳ころのセ・リーグ勢力図は、ヤクルトスワローズ

が、野村監督のIT野球と、楽しく野球する選手たちがいて、

バランスが取れた強いチームで頭ひとつででいました。

今思うとこのころヤクルトを最後に、パ・リーグが有利に

日本シリーズを戦う感じになったと思います。

そのヤクルトと、松井秀喜さんの讀賣、今中さんと山本昌さん

のダブル左エースのドラゴンズこの3つ巴構図でした。

このころわたくしが好きな瞬間がありました。

それは代打川又さんの登場の時です。

川又さんの出場機会は、毎回試合を決定づける場面、言わばハイライト

とも言える場面、胸のドキドキしながら観ていた時に、

駆け引きだったり集中力だったりわたくしが感じる野球観戦での、

正念場だと感じられるようになったのは、川又先生のおかげです。

ウィーン君 秋田で独身生活

話は変わり、十代の終わりバブル崩壊を受けて、退社することに

まりました。でも研修期間中に勉強した内容が発揮する

機会がないまま退社したので、せっかく楽しく学んだ研修内容を

実践で試したいと思うようになりました。

なので同じ職種から会社を選び、東京にある会社に

再就職することが出来ました。早速引っ越しをして、大都会

東京へ行きました。入社した会社が町工場だったのもあり、

指導者が東京には居ないので、東京を離れることになりました。

転勤先が、落合博満さんの出身地で有名な秋田県までは特に悪くないけど、

秋田県と言っても繁華街ではなく、なまはげ発祥の地、男鹿半島にある

男鹿市にある転勤場所だった。OMG

多分、旅行で一時安らぐにはとっても楽しい観光地だと思います。

歩いて20分くらいのところにコンビニがありました。

それも夜8時までとか営業しておらずもはやコンビニの名前を使った

普通のお店、それとテレビのチャンネルが少ないとか

不便さがある土地でした。

男鹿の人たち助けられて🤣🤣🤣

でも、転勤先の会社の先輩とか、接する人たちがとてもいい人ばっかり

で楽しい日々を過ごすことが出来ました。

夜になるとやれることが無く、でも二十歳そこそこのわたくしは、

元気が有り余り 接客する飲み屋に通うようになり、

押しの女の子も出来、不健康だとは分かっていましたが、

とことん遊び続けました

当時は、働き方改革とは真逆の仕事で、ノルマが終わるまで、

帰れない、ほとんどが仕事の時間で、たまに(週に何回か)

飲みに行く生活を繰り返してました。

なので、イチロー選手が活躍しているのを、知ったのはかなり遅れて

知りました。

そんな生活環境の中、男鹿に住むのに欠かせないものがその時もっていませんでした。

それは自家用車です。

田舎暮らしをしたことのある人は分かると思います。

決定的に行動範囲が狭い(徒歩圏内)

でもその屈強も男鹿市民の人たちに助けられて

遊んでもらい、お酒を飲みに行き助かりました。

🐲竜の気配🐲

ある時小学校の隣を走っていたら、

知っている生き物だが、見たことはない。でも知っている。

心がザワザワする

その生き物はでした。

木造のオブジェですが、

大きさ、存在感、を見て

何故私こんなに心がザワつくの!

そんな自問自答を繰り返していると、あ~そっか そうだよね

納得する答えが出ました。

そうだ わたくしはドラゴンズファンだからだよ で納得でした。

このエピソードで、間違ってドラゴンズファン

なったのではなくもっと、も~っと大きな処からドラゴンズファンに

なるべくしてなったことを深く感じた出来事でした。

世の中では、のりぴーこと酒井法子さん主演の星の金貨

が、流行っている時に、事件は起きました。

その頃になると、知り合いを伝手に自家用車を購入していたので、

そんなに不便だとは感じなくなっていました。

むしろ秋田弁も話せるくらい溶け込んでいて秋田がいや

男鹿がとっても好きになっていました。

突然😢

そんな時、管理職でもないわたくしのお給金が振り込まれない

と言う大事件が起きました。いろいろ考えた結果、

地元に戻ることに考えがまとまり、男鹿を離れることにしました。

22歳夏の事です。

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